土方巽は1973年をもって舞台に立たなくなります。自らダンサーであることを封印して、新しい舞踏を若いダンサーたちに振り付け指導し、教えるようになってゆきます。
当時土方巽の稽古場であった、アスベスト館に集まってくる若者たちは、もともとダンサーではありませんでした。ダンスの経験もなく、テクニックもない若者たちを舞台に上げるために土方巽は、この「舞踏譜」でもって振り付けます。これにより、若者たちを舞台に上げることとしたのです。
「舞踏譜の舞踏」はその構造にあってもメソッドにあっても、きわめてメカニカルに構築され運営されます。しかも身体の動きのみならず、人間の複雑な心理を、あるいは奥深い感情を、あるいは繊細な神経を、あるいは制御しがたい生理を巧緻に手繰り、操作することで、土方巽の「舞踏譜の舞踏」は成立するのです。
1960年代の土方巽の舞踏は、アヴァンギャルドで実験的で、ハプニングともいうべきパフォーマンスでした。「暴力」や「性」が際立っていましたが、《四季のための二十七晩》では「病」、「老い」、「死」がテーマとして表れます。土方巽の独自のダンスの哲学でもありスタイルでもあった「立てない舞踏、立たない舞踏」を実践する公演でもありました。もう一つの特徴は、「舞踏譜」を活用した新たなメソッドの開発です。ダンスの創作における革命ともいえる土方巽の「舞踏譜の舞踏」が初めて登場したのです。
1970年代の土方巽の舞踏表現の核心は舞踏譜です。このスクラップブック「なだれ飴」は、舞踏譜の創造の最初期に制作されたもので、その後に深化されてゆく世界でも稀有なメソッドの萌芽を感じることができます。特に公演<なだれ飴>は土方の体調不良により出演を断念せざるを得なかったがために、弟子たちのみで上演を行なっています。1973年以降、演出・振付に専念する土方作品の方向性、また白桃房による連続公演の始まりの一つとも言えるかもしれません。
<和栗由紀夫氏&小林嵯峨氏映像>
<疱瘡譚映像>
<サドル写真>